なぜ、時間湯は潰されていったのか。その1

 

 以前の記事で少し書きましたが、今回はなぜ六つあった時間湯が現在二つになり、その昨日も失われつつあるのか。

 これを少し考察していきたいと思います。

 

 それでは始めましょう。

 

 時間湯を知らない人に簡単にご説明しますと、草津はかつて湯治が盛んな町でした。

 

 医療も薬もまだ整っていない時代。温泉で病治をすことが当たり前のこととされていました。草津温泉は高温、強酸性、様々な鉱物、希少金属などの成分が含まれており、保温効果、血行促進、肌バリアの形成、免疫機能向上、整体ホルモンバランスの調整などの今では科学的に認識されている効果があり、また草津は空気が清浄で、夏は涼しく、湯治という規則正しい生活を送ることで、薬効は草津にまさるものなしと言われるほどでした。

 

 実際にも草津の湯は体に聞く、病に聞くと全国から人が集まり、多くの人が湯治に来て体が良くなり、その感謝として道を整備したり、橋を架けたり、中には草津に住んで旅館などを営む人も出てきました。また草津は経済的な理由でハンセン病の方も受け入れました。善意で受け入れたのはコーンウォール・リー女史です。草津の町は湯治の客の恩恵によって成り立ってきました。

 

 こうして湯治といえば草津温泉ということが広まり、温泉番付の東の横綱となったのです。決して湯量が多いだとか、訪れるお客が多いとか現在の基準ではなかったということです。

 

 さて、湯治の中心となったのが時間湯と呼ばれる草津独特の入浴の仕方です。湯畑を中心に各所にあった温泉場でそれぞれ個々に入っていいた、あるいは緩やかな決めごとを設けて複数で湯治していたと考えられるものを、集団入浴、三分入湯という概念を持ち込み、湯長という管理者を設けて確立したのが時間湯です。

 

 温泉は成分を薄めては効果が薄いとなるため源泉かけ流しの湯が当たり前であり。温泉は湧くが水は貴重であったため、温泉に加水して薄めるという概念もありませんでした。今でも温泉の成分が薄まるため、また加水となるとイメージが悪るくなるためほとんど行われてはいないと思います。

 

 しかし、草津の湯は高温であるためにそのままでは入れず、湯の温度を下げる必要性がありました。

 

 そこで考えられたのが板で湯を撹拌し、温度下げで入るという方法でした。これならば成分を損なわずに入れるということで広まったと考えられます。

 ただ、問題もあります。それは草津温泉の湯量が多かったということです。現在でも自噴湧出量は日本一の草津温泉です。ちなみに湧出量日本一は九州の大分にある別府温泉です。

 多くの新鮮な湯が自噴して浴槽に流れ込んでくるために、個人の力では温度を下げるといっても限界がありました。そこで集団で湯を揉むということが確立されていくのですが、

 

 ここでまた問題が起きます。湯を揉んだことがある人なら分かると思いますが、バラバラには揉めないということです。波が立ち、浴槽から湯がこぼれ、温度も効率良く下がりません。そこで考えられたのが号令者の音頭で皆で合わせて湯を揉みましょうとするやり方です。

 そこで登場したのが隊長と呼ばれる湯長の前進となる者でした。一説では講談師の桂燕玉という人が、湯治に訪れた際に、声がよく、人からの人望もあったために望まれて湯もみの音頭を取ったのが皆で湯もみをする始まりとされています。

 こうして入浴を指揮するものが現われたのは草津温泉の湯治ということに関しては必然であったと思います。なぜならば、湯自体がそもそも高温であり、集団で入浴するほうが効率がよくまた、皆で頑張るという連帯意識により湯治の効果がより進められる。また、それをまとめる者が指揮を取って入湯を見守れば事故防止にも役立つととても理にかなっていたのです。

 

 時間湯は自然発生的に生まれたと思われるかもしれませんが、実はどのように効率よく湯治を進められるかを追求した結果、湯もみ、湯長制度、入湯法が徐々に確立し、湯治が進化していく過程で整ってきたのです。

 

                                  つづく