なぜ、時間湯は潰されていったのか。その2

 

 草津は湯治で成り立ってきた町でした。全国から多くの湯治客が訪れ、その中から草津に移り住んだ方もおられました。

 にもかかわらず、草津に在住している方でも、昔のことを忘れ湯治に興味がない人も増えましたが、それでもルーツとしてそして自分たちのアイデンティティとして今も草津の湯治は続いているのですが、

 それはさておき、時間湯について話をすすめていきます。

 草津には、時間湯は六湯ありました。熱の湯、松の湯、白旗の湯、千代の湯、の湯、地蔵の湯です。

 それぞれの湯は、競い合って湯治の技術を高めていきました。中でも有名なのが熱の湯湯長の野島小八郎です。野島は新潟の人で、病を患らい療養のために草津に来て湯長となりました。野島は努力と研鑽を重ねて多くの湯治客を救い、石碑も建立されるほどの湯長となりました。

 また、時間湯を医学的見地から考察する試みも行われており、現在の布施医院は温泉浴医局として時間湯の研究を進め、東大の物理療法科の三澤教授らとともに48度上限、3分入湯が作られました。

 また、湯長は湯の管理とともに多くの湯治客の管理や臨床経験からノウハウを蓄積していき弟子を取り、伝えていきました。

 ですが、日本は戦後から高度成長期に入るにつれ、社会が大きく変化をし、医学的分野においては薬の普及、医学的技術の進歩、法整備がなされ民間療法が置き去りにされる形で医学が進んでいきます。また、温泉地も湯治よりも観光としての需要が大きくなり、それに伴い観光目的の温泉利用が増大していきました。

 草津も湯治からの脱却、観光地化に大きく舵を切り現在に至ります。

 そのようななかで町の中心である湯畑にあった熱の湯、白旗の湯、松の湯の時間湯が消えました。熱の湯は、湯もみのショーを見せる場となり、白旗は共同浴場、松の湯は足湯として現在残っています。

 の湯は旅館街ありましたが消滅して、現在千代の湯と地蔵の湯が残っています。

 観光が主目的の温泉地になったとは言え、薬湯としての温泉利用は時間湯を通して続いていました。

 しかし、今年の時間湯の湯調製度廃止により、湯治の指導がなくなり湯治客のニーズに答えることができない状態になり、また湯もみの技術もなくなる危機にあります。

 湯長が湯治の知識を弟子に伝える形で継承をしていくためそのノウハウは湯長に蓄積されていきます。その湯長がなくなるということはつまり、時間湯がなくなるということに等しいのです。

 それなのになぜ、湯調製度を廃止するのか、また時間湯をくいものにしようとしてきた者たちについて次回は語っていきます。