時間湯が、実質的になくなったその真相と流れ、その1

草津の誇る、伝統の湯治法、「時間湯」の湯長制度が終わってすでに2か月が過ぎようとしています。

 

ニュースでも話題になっているので、表面上は知っている方が増えたと思いますが、その本当のところは知らされていないと思います。

 

当ブログでは、今年に入ってからの実質的閉鎖の流れとともに、どうして時間湯はいつの時代にも閉鎖の危機になるのかを、考察していきたいと思います。

 

時間湯はいつでも廃止の危機にさらされてきた。

 

時間湯は草津温泉の湯治を表すものであり、草津は湯治の町として発展をしてきました。

 

熱の湯 松の湯 白旛の湯 鷲の湯 千代の湯 地蔵の湯

 

この六湯が時間湯として成立していましたが、湯畑の観光化が進むと同時に

 

湯畑にある 熱の湯 白幡の湯 松の湯 が閉鎖しました。

 

そして、鷲の湯がなくなり、

 

現在は、湯畑から少し下った千代の湯、そして湯畑の裏にある地蔵の湯が残りました。

 

 

この二つが残ったのは何故か?

 

 

千代の湯は、鷲の湯と距離が近かったので、どちらか一方が淘汰された故に生き残ったのでは、

 

地蔵の湯は湯畑から離れた裏手にあり、湯畑源泉でなく地蔵の独自源泉であったと考えられます。

 

他にも理由はいろいろあると思いますが、地理的な部分で言えば、湯畑から距離があったおかげで生き残ったともいえます。

 

またこの二つの湯には、入湯者の会の友の会の存在があり時間湯を守ろうとする力があったとも言われています。

 

逆に言えば、他の湯は地理的不利、内部争い、そして利権争いに巻き込まれて淘汰されていったともいえます。

 

 

そもそも時間湯が消えた原因は

 

高度成長期の時代、所得も上がり、レジャー産業が急成長した時代です。短期間の宿泊でお金を落としてくれる観光客の招致はある意味必然だったかもしれません。

 

草津の町はそれまでの湯治の町から脱却し、観光地化へと進みました。

 

大規模リゾート開発、観光施設の建設、観光客を呼び込むためのPR及びイベントと湯治としてのイメージの払しょくに邁進しました。

 

そのおかげで湯畑は、湯治のイメージをすべて無くし、歴史と文化のイメージだけを残してきれいにリニューアルしました。

歴史的なものを排除、または形骸化して、ただ観光として楽しめる形だけを残すことに成功したのです。そのツケは、世界遺産登録が難しいという形で帰ってきますが、それは後の話。

 

その中で時間湯の立ち位置は、触れてはいけない存在、観光化の手前大きくは宣伝できないし、かといって自分たちの歴史であるから潰すこともできない。あやふやなものとして存続していきました。

 

ある意味、隠したいけれど、隠すのも難しいのでそっとしておこう、というのが町としてのスタンスでした。分かりやすいですね。

 

 草津の歴史を見るに、日本一の温泉で藁にもすがる思いで湯治に来た浴客がこの温泉のすばらしさに感動をして、草津の地で商売を始め、居つき、家族を作ってきました。多くの入湯客がそのお礼にと道路を整備し橋を架ける寄進をしたり、多額の寄付を町にしたりとしてきました。

 

湯治で病を治し、そのお礼や感謝で、町が成り立ってきたという歴史もまた一方で存在し続けてきているのです。

 

それは現在でも実は続いています。湯治客は草津温泉に感謝をして、草津の温泉のすばらしさ、本物の湯だということを伝えていますし、知っています。

町内外に関わらず、時間湯という存在は必要だと思う人が多く存在するのです。

 

 

さあ、これを踏まえて、

 

今回の時間湯事件を紐解いていきたいと思いますが、

 

本日はここまで。