時間湯が、実質的になくなったその真相と流れ、その3

 

地蔵の湯は、現在の地蔵公園の地蔵湯畑の隣にありました。源泉のすぐ近くあるいは真上という時間湯を建てる時のルールが昔はあったようです。


時間湯にはガラス戸があり、外から湯もみをしている姿が見れたそうです。皆で湯もみをしているところを見せて、それから戸で覆い、入湯をしたそうです。
後にガラス戸はなくなり、共同浴場と時間湯は切り離されましたが、元々の地蔵の湯は浴槽は時間湯一つで時間湯が終わった後に、地元の人が入っていたようです。

地蔵の湯も他の時間湯と同じく旅館との結びつきもありました。今はなくなってしまった木造3階建てが珍しい高砂館。重田旅館、大津屋。今もある地蔵周辺の旅館さんも時間湯を利用するお客さんが宿泊していました。

湯畑の裏にあるということで地蔵区は旅館が軒を連ねていたとも聞きます。

 

そして、地蔵の時間湯にも先の記事で書いた二軒の旅館がちょっかいを出してくるのですが、地蔵区にあるもう一軒の旅館もまた時間湯に絡んできました。

時間湯にくるお客は、長期の宿泊で金を落としてくれる。地元への付け届け、町への寄付も行っていたので、そういう意味では利権がありました。

しかし、時間湯としてはそれは、このお湯に対する感謝の気持ち、良き地元の人への感謝の気持ちにより、そうした行為に及ぶのであって、決して上納金のような形で金銭のやり取りがあったわけではないのです。

しかし、そこに目を付けた旅館が自分の利益のためにお互いがいがみ合い、なんとか自分の旅館に誘客できないか、自分の旅館に利権が来るようにできないかを争っていたのです。

その手が地蔵にも及びましたが、高原湯長、井田湯長が、湯治客のためにはならないとして排除をしました。それを恨みに思い攻撃していることも、実は今回の時間湯の湯長制度廃止につながっています。

時間湯の湯長は、湯治客のために湯治がスムーズに行われるためにはどうしたらよいかを考え、時間湯の入湯者は友の会を作り、時間湯を守るとともに未来に来る湯治客のために便宜を図っていたのが時間湯の形でした。

湯長は、日々大変な仕事を朝から晩までこなし、友の会やOBは少しでも湯治ができる環境を整えたいとう純粋な思いから行動をしていたのです。決して非難をされる、人に迷惑をかける行為をしていたわけではありませんでした。

昨今町では時間湯の悪い噂ばかりが流れていますが、良い噂が流れないのは何故なのか。考えてみてください。


次回へ続く。